タブーを口にするためには、得体の知れない恐怖を乗り越えなければいけない。
人目に触れることが殆どないような、この場所でも、誰の目に触れるかもわからない公の場であることにかわりはないので、話題や言葉を選ぶ時には、少しだけ気を使います。
でも、今日は少しだけ、勇気を出してみようかな。スルーした方が無難な話題に、頭から突っ込んでみようかな。
だって、今日は。プレミアムローストチキンサンドを初めて食べた記念日だから。。。予想以上に野菜たっぷりで、予想外にあっさりした味わいでした。そんでもって、うまかった。また、食べたいと思います。
さてさて本題です。
まず一つ目は、本日ニュースになっていた、橋下さんと朝日系週刊誌(←小心者でごめんなさい)の件です。
私が、小さな町に住んでいた時、その地域の小学校の運動会に参加する機会がありました。その演目に「部落対抗リレー」というものがあったのだけど、聞く人によっては差別的響きを感じるらしいと、本日初めて知りました。えぇ!放送禁止用語だったって本当なの?!私は、「おらが部落から死人を出す訳にはいかねえ」と胸を張っていた、ご老人に会ったことがあるのだけれど、その人に、地域の結びつきの強さと、例え村八分の状態にある困った人でも決して見捨てたりはしない、という気高い精神を学んだのだけれど、聞く人によっては「この人、自分で部落って言っちゃった」みたいなニュアンスを感じちゃうってことなの?!わざわざ、部落というのは集落のことですって説明しないといけないの??
同じ日本人なのに、知識差がありすぎるよ。知識のない地域の人は、普通に使ってるよ、部落なんて。そんな深い意味、考えたこともないよ。歴史の違い(身近に差別地区があったかどうか)が、人々の意識にも大きく影響しているんですね。
私が、日本人同士が差別しあうことがあり、現在まで続いていると知ったのは、就職してから受けた同和問題の研修です。その時も、本当にそんなことが(現在に)あるのかと半信半疑だったのですが、現代でも誹謗中傷のネタにされるのだと、本日痛感しました。学校教育では、江戸時代に、穢多非人と呼ばれる身分階級の人がいて、明治になると身分制度はなくなった、と習ったような気がします(←ものすごく薄い知識)。母も学校教育では習ったことがないらしく、島崎藤村の「破戒」を読んで部落問題を知ったんだとか。関東者の知識なんて、こんなものです。
差別の背景には、宗教も絡んでいるみたいで(仏教で殺生を禁じているあたり)、居住地だけでなく職業(お肉屋さん関係)でも、差別を受けることがあるらしく、食肉市場には、いまだに嫌がらせの手紙が届いたりすると聞いたこともあります。
また、職場で、ある同僚の両親がお肉屋さん関係だったと、意味深に教えられたこともありました。「はぁ、そうですか」としか言えなかった私(その時は、そんなに深い問題だと思わなかったので)。普段、知らないだけで、毎日接している人の中に、謂れのない差別を受ける背景を持った人がいる可能性があることを、実感しました。悪気のない噂話(事実関係は不明)も、差別になるのだと、きちんと認識しないといけないし、正面から差別問題と向き合わないと、無知ゆえに人を傷つけることもあると思います。祖先が何であろうと、その人の印象がかわるようなことはないけれど、人によっては態度を変える人もいるかもしれない。何より、ご本人が、自分の努力ではどうにもならない部分で、負い目を感じてしまうなら、健全に成長することも、健全な人生を送ることも、難しくなってしまいます。知らない気付かないというのも、身近な差別を見過ごす事になると肝に銘じつつ、どうしたら、差別ってなくなるんだ、こんちくしょー!腫れ物に触るように、隠しこんで、時の流れの中で、消滅するのを待てばいいのか?教えない教育が差別を消滅させるのか。でも、言葉や文化の中に、その痕跡は刻まれているのだから、何より差別を受けてきた人達が、その歴史をなかったことにすることを許すだろうか。取り敢えず、橋下さん、頑張れ!!
家系とか、職業とか、親族に犯罪歴があるとか、その人自身の人格には何の関係もないと、私は思っています。差別の根底には妬みがあるんじゃないかな。それとも自分をよく見せたいという欲が、他者を攻撃するのかな。何はともあれ、簡単には解決しない難しい問題ですよね。なにせタブーですから、見出しに堂々と「同和問題」とは書けない様子から、マスコミがタブー視している感も伝わってきます。私も、下手したら炎上しそうな話題だと、内心怯えています。なんだろう。この得体の知れない恐怖感は。。。
えぇっと、誰かを陥れる時に、卑劣な手段を使うと、かえって敵に塩を送ってしまう、という教訓になりました。